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季刊「沖縄」第56号(特集尖閣列島)に関するブログです。
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    季刊「沖縄」第56号(特集尖閣列島) 写真集ァΦ彎貪
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      季刊「沖縄」第56号(特集尖閣列島)  100頁

          写真集ァ尖閣列島の今昔・久場島


      −目次−  
       1、100頁全面
       2、本文−各写真説明文
       3、[写真 蓮仝轍貘
       4、[写真◆蓮‖任曽紊欧蕕譴秦
       5、[写真] カツオドリ
       6、[写真ぁ蓮.ロアシアホウドリとアホウドリ
       7、[写真ァ蓮‐赦14年頃の久場島
       8、[写真Α蓮.謄奪櫂Ε罐




      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ [全体写真] ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


      100ページ全面(1)







      100ページ全面(2)










       ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ [本文] ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

       





      久場島



      写真,寮睫席
      久場島(黄尾嶼)での古賀氏漁業経営、中央に日の丸が見える(明治43年)



      写真△寮睫席

      米軍の射撃演習場となっているこの島に座礁して打上げられた漁船(昭和45年)



      写真い寮睫席

      カツオ鳥の雛

      かつては幻の鳥といわれているアホウドリ・クロアシアホウドリが全島をおおっていた(明治43年)



      写真キΔ寮睫席

      この島には一・五メートルをこす大きな鉄砲百合がかぐわしい香りをはなって自生していた(明治43年)

      昭和14ごろの久場島




      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 写真 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

       久場島(黄尾嶼)での古賀氏漁業経営、中央に日の丸が見える(明治43年)


      写真には8棟の家が見えます。
      古賀村は久場島以外に、魚釣島、南小島、北小島にもありました。

      高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」の第7章尖閣列島のあれこれ(6)日清戦争とバカ鳥の島」に久場島でうまれた伊沢真伎さんの話しが載っています。

      伊沢真伎さんは明治10年代尖閣諸島を探検し開発しようとし、後は古賀辰四郎氏の下で尖閣諸島を開拓した伊沢弥喜太氏の娘である。

      それによると、

      1、黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。

      2、黄尾嶼でカツオブシ工場をつくり、土佐から職人を入れて経営していた。

      3、黄尾島では貝殻の採取とアホウドリの羽毛の採取をやっていた。

      4、弥喜太氏は「八方ころび」とよばれたまん丸な真珠を品評会にだして賞金三 百円をもらい、皇后陛下に献上するために東京に行くのに支度金がかかり赤字をだした。

      ことなどが書いてある。このカツオブシ工場のあった久場島が魚釣島なのか久場島なのか確定できない(魚釣島の別名の一つに久場島がある)のだが、少なくとも真伎さんの言葉は尖閣諸島を探検しそこで夫婦で暮らした伊沢弥喜太氏の娘の残した言葉である。父弥喜太氏の伝聞で記憶も確実とは言えないかも知れないが疎かにはできない。




      [モノクロに変換したもの]




       
      [大きい複写写真]


      [上をモノクロに変換したもの]

       





      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 写真 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

       米軍の射撃演習場となっているこの島に座礁して打上げられた漁船(昭和45年)



      高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」に、「また一九六八(昭和四十三)年に台湾の業者が起重機を二台ももちこんで一万トンの貨物船の解体作業をやっていたのは南小島であった。また一九七〇年に、やはり台湾の業者が久場島で沈没船解体作業をやっていたが、これは台風で座礁して久場島海岸に打ちあげられた台湾の貨物船の処理のためであった。」とあるが、写真の打ち上げられた船は貨物船で、奥に見える建物は作業小屋か台湾人の作業員宿舎であうか。

      「琉球政府もまた昭和43年(1968年)以後巡視艇(チトセ)によるパトロールを実施、同年8月12日南小島、昭和45年(1970年)7月11日久場島に対する現地調査をおこない、沈船解体のための台湾人労働考による不法上陸の事実を確認、ただちに退去を命じた(注:南小島には45名、久場島では14名の労働者が上陸していた)。なお、アメリカ民政府は南小島で作業をおこなっていた台湾人労働者か退去命令後正規の入域手続を申請してきたので、昭和44年(1969年)10月31日までの期限を条件として、8月30日船舶三隻を含む50各、さらに翌年4月21日、追加修正78名の入域を許可した。」(季刊・沖縄 第63号 特集尖閣列島第2集「尖閣列島と日本の領有権」 尖閣列島研究会 )




      [モノクロに変換したもの]






      [大きい複写写真]





      [上をモノクロに変換したもの]





      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 写真 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


       カツオ鳥の雛



      の説明文に「」カツオ鳥の雛」とあるが、写真のカツオドリは成鳥と思われる。参考までにカツオドリの日なの写真を下に掲載しておきます。

      このカツオドリの写真と同じものを古賀辰四郎の子息善次氏の妻古賀花子さんが持っておられました(アサヒグラフ昭和53年5月5日号)。

      従っての写真は明治43年のものである。併しい亮命燭砲弔い討呂茲解りません。画質から見ればの写真とも他の古賀辰四郎の残した写真とも異なっているように見える。



      カツオドリの子(中ヒナ)  高良鉄夫著「沖縄の秘境を探る」90頁



      これも中雛のようです。





      [モノクロに変換したもの]






      [大きい複写写真]






      [上をモノクロに変換したもの]







      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 写真 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

       かつては幻の鳥といわれているアホウドリ・クロアシアホウドリが全島をおおっていた(明治43年)



      い寮睫席犬法屬つては幻の鳥といわれているアホウドリ・クロアシアホウドリが全島をおおっていた(明治43年)」とある。この写真の鳥がアホウドリとクロアシアホウドリだとすると、写真の中央と左に見える白い鳥の群れはアホウドリの群れであろう。この写真が説明通り明治43年のものという可能性は大きい。何故ならこの写真に写っている鳥はカツオドリとカツオドリの幼鳥か、クロアシアホウドリとアホウドリかであろうが、久場島にカツオドリがいたとは聞かないし、写真には70〜80羽はおりそうなので、大正・昭和にはこれだけのまとまったクロアシアホウドリ・アホウドリがいたとは考えられないからである。



      [モノクロに変換したもの]






      [大きい複写写真]






      [上をモノクロに変換したもの]





      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 写真 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

       昭和14ごろの久場島



      ※2 イ鉢Δ亮命燭隆屬法屬海療腓砲楼譟Ω泪瓠璽肇襪鬚海溝腓な鉄砲百合がかぐわし香りをはなって自生していた(明治43年)」とあり、Δ亮命燭硫爾法崗赦14ごろの久場島」とある。だが、イ亮命燭「昭和14ごろの久場島」でる 

      尖閣諸島防衛協会会長恵忠久著「」尖閣諸島・魚釣島」によると「」久場島 大正時代リン鉱石の調査 正木県技師の一行(現在米軍の射撃場)大正初期の写真とある。(下に参考として引用)

      上の写真は昭和14年(1939年)に、農林省の資源調査団(小林純および高橋尚氏)が石垣測候所の正木任技師を同行して尖閣列島に赴いている。

      久場島・大正時代のリン鉱石調査-尖闇諸島防衛協会




      [モノクロに変換したもの]




      [大きい複写写真]




      [上をモノクロに変換したもの]




      ※参考  尖閣諸島防衛協会の恵氏の著書「尖閣諸島・魚釣島」に掲載された写真


       農林省の資源調査団(小林他)が1939.5/23-06/04にかけて尖閣諸島の資源調査を実施、石垣島測候所から参加した正木任氏の寄稿










      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 写真 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

       この島には一・五メートルをこす大きな鉄砲百合がかぐわしい香りをはなって自生していた(明治43年)

      ※イ鉢Δ亮命燭隆屬法屬海療腓砲楼譟Ω泪瓠璽肇襪鬚海溝腓な鉄砲百合がかぐわし香りをはなって自生していた(明治43年)」とある。恐らくこれはΔ寮睫席犬世蹐Δ塙佑┐蕕譴襦
      この百合の写真が(明治43年)のものとすれば今まで知られていた明治43年の写真の他に1枚あったことになるが、資料が少なすぎて今俄に判断できない。



      。「この島には一・五メートルをこす大きな鉄砲百合がかぐわし香りをはなって自生していた(明治43年)」はΔ寮睫席犬覆里世蹐Αだがこの百合の写真が(明治43年)のものかどうかは資料が少なすぎてまだ確定できない。




      [モノクロに変換したもの]




      [大きい複写写真]





      [上をモノクロに変換したもの]





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